わたしのまえで母は三度泣いた(上野圭一)

『HOLISTIC MAGAZINE 2012』

わたしのまえで母は三度泣いた

上野 圭一(翻訳家・NPO法人日本ホリスティック医学協会名誉顧問)


 

母は明治末年、香川県の高松市郊外に生まれた。3歳のときに実母を失い、兄姉とともに、末娘として実父と継母に育てられた。瀬戸内海での遠泳を得意とし、テニスに明け暮れる元気な少女として育ったと聞かされていたが、継母との関係はかならずしも良好なものではなかったらしい。
直接的な表現で継母にたいする批判めいたことばを耳にしたことはなかったものの、実母への慕情にあふれたことばは、母の口からくり返し聞かされた記憶がある。

母方の祖父つまり母の父親は、わたしのおぼろな記憶のなかでも温和でやさしい人だったようだ。おそらく祖父は、継母との仲をなさぬ末娘を気遣い、なにくれとなく母の味方になってくれたのではないかと想像している。

後年、わたしが小学校の3、4年生だったころの夏の夕暮れどき、東京中野にあったわが家に一通の電報が届いた。そのとき家には母とわたししかおらず、電報を受けとった母は玄関口でそれを読み、しばらく佇んでいた。
そして電報を握りしめたまま小走りに和室の隅まで行って、薄暗がりの床の間の端にしゃがみこむと両手で顔を覆い、声をたてずに泣きはじめた。

わたしはどうしていいかわからず、じっと母のそばに立っていた。
嗚咽をおさえるような声で「おじいちゃんが亡くなったの」と母がいった。
わたしは母のふるえる肩に手をかけたまま、黙っていた。母が泣くのを見たのは、そのときが二度目だった。

 

8・15のラジオ放送

はじめて母が泣くのを見たのは、その5、6年まえ、旧満州は新京(現在の長春)のホテルの一室だった。
1945年8月15日の昼、箪笥のうえに置かれたラジオにむかって、7、8人のおとなが泣いていた。おとなたちはみなうなだれ、汗まみれの腕でしきりに涙をぬぐっていた。
真夏の日盛りに窓のカーテンを閉めきった暗い部屋はむせるように暑く、ラジオからは途ぎれとぎれに、昭和天皇の玉音放送が聞こえていた。

わたしは衝撃のあまり、部屋の片隅で凍りついていた。
4歳のわたしには、もちろん玉音放送の内容はなにもわからなかったが、おとなたちが声を殺して泣いている姿に接して、見てはならないものを見てしまったという恐ろしさに身をすくめていた。
そのおとなたちのなかに母もいた。大阪の大学で教師をしていた父も、父の教え子たちもいた。父はその年の春、満州に骨を埋めるつもりで、家族と教え子の有志たちをひきつれて日本をあとにしたものの、何か月もたたないうちに広島と長崎に原爆が落とされ、なだれ落ちるように戦争が終結したのだった。

日本では中国語を教えていた父はそのとき、満州国国務長官の秘書官をしていた。終戦によって日中関係が逆転し、在満州の日本人たちは一夜にして難民となった。
日本国政府からは「海外に出た者は残留すべし」との通達があり、日本への引き揚げは難航をきわめた。中国語が堪能だった父はその引き揚げ事業の責任者のひとりに任命され、中国各地を東奔西走しはじめて、何か月も家に帰らなかった。家には母とねえやのSさん、姉と弟とわたしが残された。

武装解除された日本軍の兵士たちは雲散霧消していた。北からはソ連軍が国境を破って新京に近づいている。南からは国民軍(蒋介石軍)と八路軍(毛沢東軍)が接近している。
三つの軍事力が領土をめぐって争いをはじめていた。ホテルの3階の窓から見おろすと、路上で展開される国民軍と八路軍の市街戦が見えた。倒れた兵士に味方の兵士が匍匐前進して近づき、遺体を自陣に連れもどそうとしている姿を見たこともある。

ソ連兵が銃剣をもってホテルに侵入し、そこに住んでいる日本人の金品を略奪していくこともよくあった。そんなときは部屋にある収納庫に隠れて、幼い弟が泣き声をあげると、みんなで口をふさぐなど、『アンネの日記』さながらの絶望的な緊迫感が漂った。

母は留守家族をまもるために、Sさんといっしょに街頭に立って揚げ饅頭を売りはじめた。夜のうちに大鍋で小豆と砂糖を煮つめ、饅頭にして油で揚げたものを、翌日、首からひもで吊った板に並べて、街頭で売り歩くのだ。反日感情にわき立つ中国人男性に凌辱されないようにと、二人とも髪を男のように短く切り、顔に炭を塗って、ふだんの母たちとは別人のようなすがたで、毎日、町に出て行った。母にしてみれば、きっとそれが唯一の、生計を立てる方策だったのだろう。

 

娘を亡くした日

三度目に母が泣くのを見たのは、わたしが小学5年生のときだった。
旧満州での難民生活をなんとかしのいで、1947年、父とともに家族が最後の引き揚げ船で帰国してからは、けっして豊かではなかったが、平和な日々がつづいた。

ところが、中学2年になった姉が、可愛がっていた猫にひっかかれた傷を化膿させ、高熱にうなされるという予期せぬ事態に見舞われた。最初に診てもらった医師の誤診で敗血症の診断がつくまでに時間がかかり、別の医師の診断がついたときは手遅れになっていた。姉は病院で、うわごとをいいながら息を引きとった。

家のまえで停まったタクシーから、赤い着物をきた姉の遺体を両腕にかかえて、父が降りてきた。そのとき、母がおなじタクシーに乗っていたのか、それとも乗っていなかったのか、わたしは覚えていない。
じつは、母が娘を亡くしたのは、それがはじめてではなかった。
父と結婚して長女を出産し、その長女が1歳のときに父の両親に初孫を見せるべく、当時住んでいた兵庫県宝塚市から郷里の新潟へとむかった。季節は冬で、新潟は銀世界だった。長女は肺炎になり、あっというまに亡くなったという。
長女を亡くしたかなしみを封印してトラウマからようやく立ち直り、次女、長男(わたし)、次男をもうけて、暗い戦時を生きぬき、渡満してすぐに難民生活を強いられ、ようやく帰国して平和な時代を迎えたその矢先に、母は次女(わたしの姉)を失ったのだ。

姉の葬儀は中野の自宅でとり行なわれた。気丈にふるまっていた母は、いよいよ出棺というとき、玄関の三和土で崩れるように倒れ、大声をあげて泣いた。
「行けません。わたしはここで」と、ふりしぼるようにいって、さらに泣きくずれた。
喪服の母は封印していたかなしみを一気に絞り出すかのように、号泣していた。

棺を乗せた霊柩車は母とSさんを家に残したまま火葬場へとむかった。わたしはこころのなかでSさんに「母をお願いします」といって頭をさげ、車に乗りこんだ。
おおむね健康だった母が体調を崩しはじめ、胃痛と不眠を生涯の友とするようになったのはそれからのことだった。

わたしが中学生になったころも、学校から帰った家では、母が臥せっていることが多かった。衣替えの季節になると、箪笥の中身を入れ替えながら、「来年はだれがこれをしてくれるんでしょうね」などと力なくつぶやく母のことばを、わたしは歯がゆい思いで聞いていた。
しかし、毎年、おなじ季節におなじことをいうので、わたしは母がそれをいうまえに、そのせりふを母の口調をまねていい、母を笑わせるようにもなった。

 

かなしみを忘れた晩年

母は高松の女学校を卒業すると、東京の実践女学校の国文科に入った。文学好きだった母は創設者の下田歌子、歌人の竹島羽衣、言語学者の金田一京介などに教わったことを誇りとしていたようで、よくその話を聞かされた。
家には漱石や鴎外の全集、万葉集や古今集など、母の書物があり、問わず語りに読書のたのしみを教えてくれたのも母だった。

姉の葬儀のとき以来、母が泣くのを見たことはなかった。
わたしが高校生のころ、わが家は中野区から杉並区に転居した。家ではまめに立ち働き、季節になると、布団綿の打ち直しや着物の洗い張り、畳の風通しなどにも精を出すようになった。
来客が多かったので、得意の中国料理をふるまうこともよくあった。短歌を詠んだり、俳画を描いたりと、趣味の世界もひろげていき、当時、杉並区が主催していた「保育ママ」の資格をとって、働く若い母親から赤ん坊を預かっては、その保育を楽しんでいたこともあった。

わたしが鍼灸師になって、いちばん喜んでくれたのは母だった。
「腕をあげたら、わたしの不眠症を治してね」といっていた。腕をあげることはなかったが、わたしはその母を実験台にして鍼灸の実践を積み、やがて不眠の治療を数少ない得意わざとするようになった。耳のうしろにある膨らんだ骨の下のくぼみに「完骨」というツボがあり、そこに長めの鍼を刺入して、母の呼吸のリズムにあわせて鍼を微妙に動かしながら行なうその治療を、母はことさら好み、その呼吸がやすらかな寝息に変わることもしばしばだった。

一病息災というが、そのとおりで、姉の死以来病弱にこそなったが、母は細く長く生きる運命にあった。
頑強だった父が82歳で亡くなってからも、母は生きつづけた。米寿を迎えるころだったか、いつも秋になると真っ赤に染まる庭の錦木を愛でていた母が、ある秋の日、「庭の・・・」といったまま口を閉ざし、眉間にしわをよせて、じつに不安げな表情のまま黙りこんだことがあった。
「ニシキギ」ということばが、どうしても出てこないのだ。母は認知症になることを極度に恐れていたようだった。

運命は容赦なく、母を認知症の世界へと誘いこんでいった。だんだんわたしのことがわからなくなり、内部へ内部へと閉じこもっていくようだった。
しかし、認知症にも利点はあった。長年苦しんできた不眠症や胃痛がうそのように消えて、よく眠り、細かった食欲も旺盛になっていた。
最晩年は東京郊外の病院に入院していた。見舞いに行っても会話は成立せず、車椅子を押しながら、黙って病院の外の林のなかを歩いた。

母は92歳で亡くなったが、いまでもわたしのそぐそばにいるような気がしている。

(HOLISTIC MAGAZINE 2012より)

 


上野 圭一 うえの・けいいち
1941年生まれ。早稲田大学英文科、東京医療専門学校卒。翻訳家/鍼灸師/日本ホリスティック医学協会名誉顧問
世界の代替療法、ホリスティック医学を先駆的に研究し、多くの書物の翻訳を手がける。
<著書>
『代替医療 オルタナティブ・メディスンの可能性』角川文庫(2002)
『補完代替医療入門』岩波新書 (2003)
『わたしが治る12の力 自然治癒力を主治医にする』 学陽書房(2005)
<訳書>
『人はなぜ治るのか』アンドルー・ワイル/日本教文社(1984)
『太陽と月の結婚 意識の統合を求めて』アンドルー・ワイル/日本教文社(1986)
『ナチュラル・メディスン』アンドルー・ワイル/春秋社(1990)
『魂の再発見 聖なる科学をめざして』ラリー・ドッシー 井上哲彰共訳/春秋社(1992)
『癒す心、治る力』 アンドルー・ワイル/角川書店(1995)
『いのちの輝き フルフォード博士が語る自然治癒力』ロバート・C.フルフォード他/翔泳社 (1997)
『癒す心、治る力』アンドルー・ワイル/角川書店(1997)
『癒しの旅』ダン・ミルマン/徳間書店(1998)
『人生は廻る輪のように』エリザベス・キューブラー・ロス/角川書店(1998)
『音はなぜ癒すのか』ミッチェル・L.ゲイナー、菅原はるみ共訳/無名舎(2000)
『バイブレーショナル・メディスン』リチャード・ガーバー、真鍋太史郎 共訳/日本教文社(2000)
『奇跡のいぬ グレーシーが教えてくれた幸せ』ダン・ダイ、マーク・ベックロフ/講談社(2001)
『ライフ・レッスン』エリザベス・キューブラー・ロス、デーヴィッド・ケスラー/角川書店(2001)
『ヘルシーエイジング』アンドルー・ワイル/ 角川書店(2006)
『永遠の別れ』エリザベス・キューブラー・ロス、デーヴィッド・ケスラー/ 日本教文社 (2007)
『うつが消えるこころのレッスン』アンドルー・ワイル/角川書店(2012)
他多数。


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