「森のイスキア」のケアのあり方(佐藤初女)
『HOLISTIC News Letter Vol.72』
「森のイスキア」のケアのあり方
課題を持った人が、自らを癒すために訪れる場「森のイスキア」。
そこには、あたたかい眼差しをもった人と人とのふれあいがある。
――いのちを大切にするという思い―― そこにケアの原点がみえてくる。
講師:佐藤 初女さん<2009年講演録>
森のイスキアでの心がけ
私は「森のイスキア」と命名している小さな建物を拠点として、ささやかな活動を続けてまいりました。
「どんな活動ですか?」と問われると戸惑うのですが、「食べることを大事にしているんです」と答えています。私たちは食べなくては生きていけませんので、食べ物を通していのちをいただいていると思います。
そして、いのちはすべてにある。ですから、食材そのものもいのちなんですね。そうとらえると、生かすということが大事になるので、慈しむように、育むように調理いたします。
食材をモノととらえた場合は、そそくさと作ってその場その場を間に合わせますね。そのような生活が続いていますと、お腹は満たされるけれど心は満たされていないので、大人でも子供でもあるとき問題となって浮き上がってくるように思われます。
初めてイスキアに訪ねて来られる方のお話を聞いていると、正しい食事をしていない人がほとんどです。そこで、正しく食べることによって活性化し、皆さんは変わってきます。
訪ねる方はたいてい夕方近くに来られて、夜の食事をしてから皆で歓談します。
それまでしおれてしまったように青い顔をして声も出なかった人が、元気になって「食べることってすごいんですね」とご自分で感じられるんです。そういうことがイスキアでの活動になっています。
今日は「森のイスキアのケアのあり方」というテーマをいただきました。
ケアというほどでもないですが、訪ねて来られる方を迎えるときには、基本的に自分が緊張しないように心がけています。緊張して迎えるとお客さまも緊張しますので、まず自分が緊張しないこと。
そして、暑いときには涼しく、寒いときには温かくなるように、訪ねて来られる人が自由な気持ちでお話ができるように、雰囲気も和やかにしたいと思っています。
以前、私が聞いた話で「神様のもとでは、私たちは皆同じである」という教えがあります。
それまで私は、「あの人は勉強ができる、私はあれができないこれができない」と考えていたので、この言葉を聞いてすごく自由になりました。
ですから、どんな方が訪ねて来てくださっても、神様の前では皆同じなんだという気持ちでお迎えしています。
いのちが変わる瞬間
食べることに関して私がよくお話しているのは、今まで大地で生きていた緑の野菜をゆがくことによって、より一層、緑が輝いて、美しい色になる一瞬があります。
その時、脇見をしたり、話をしたりしているとその一瞬を見失ってしまいます。お湯をたっぷりにしてそこに野菜を入れて、かき混ぜているうちにパァーと色が変わってくる。そのとき茎を見ると茎が透き通っています。このときが一番おいしい。
こうして野菜のいのちがからだに入って、私たちのいのちと一緒になって生涯生き続けるわけですね。そう考えれば、食べることへの感謝の気持ちが湧いてきます。
いのちが変わるときには、何でも透明になっているようで、セミやザリガニも脱皮するときには透明な姿になっていく。あるとき、焼き物(陶芸)をやっているお寺の住職さんが、「焼き物も一番よく焼けているときは透き通るんですよ」と話してくれました。土から焼き物へといのちが変わる瞬間に、透明になるということなんですね。
また助産師をやっていたという女性は、「母さんのお乳も透き通っているのが良いんです」と教えてくれました。お母さんのお乳が乳房を通して、赤ちゃんのからだに入っていく、これこそ「いのちの移し替え」ではないかと思い、感動しました。
戦後になってからは、「母乳は差し障りのあるものもあるが、ミルクはいいものをあわせて調合しているからとミルクをすすめられました」と言われたんですが、今、母乳で育ったお子さんとミルクで育ったお子さんを見ると、答えが出ているんですね。
敗戦によって日本人の食文化や生活が大きく変わり、こちらが良いと言われればこちらへ、あちらが良いと言われればあちらへなびくようなことがずっと続いてきました。でもそうではいけない、やっぱり自分で識別できる、そして確信をもって続けていくことが、今、求められているんですね。
それには、自分で体験をして、確信をもつことが大事です。
人に聞くだけでなくて、自分で識別して、行動に移していくこと、これが今、私たちに問われていると思います。
私は、昔のものほど良いものが残されていると思いますが、欧米食になったことで病気も増えているようです。京都の舞鶴から薬剤師の方がオートバイで訪ねて来られたので、話を聞いてみると、「自分では良くないと思っても、お医者さまからの指示で薬を出さなくてはいけないのが辛い」と話されました。
「自分はこのまま薬剤師を続けたらいいのか…。本当は食べ物の方でやっていきたい」と言って2泊ほどして帰られ、後から「食の方でやっていくことにしました」と手紙がきました。そういう人もいます。
このように、ご本人の気づきというのはとても大きな体験です。気づくためには、やはり心の目を開いていなければならない。私も多くの場合、人との出会いの中で教えていただいているんですね。心と心を通わせて出会ったときには、必ず気づきと発見があります。
気づきと発見があったらば、行動に移さなければ何にもならないので、行動に移していきます。行動に移したときにすべてがうまくいくかというと、そうではないですね。あるときはそのまま進めないこともある。それでもあえて進めようとすると失敗することもあります。
そういうときにはしばし休んで、状況を判断してから次に進んでいくようにする。そうすると確実な歩みになります。
調理を通してわかること
調理はその人の生きる姿のように思います。煮たり焼いたりするのは生きる姿そのものなんですね。
急ぐ人は急いで作り、ゆっくりの人はゆっくり作る、面倒くさいという人は略して作ります。しかし、面倒なことをやることが、生きることに力を与えることになるんです。人から言われるのではなく、自分で調理しながら「これはやりすぎた」「少なすぎた」と自分で判断して、直していく。そのように、調理すること、食べることは生活そのものので、全部一貫しているものだと思います。
私は「ガイアシンフォニー(地球交響曲第二番)」という映画に出演してから、あちらこちらで「食はいのち」という話をし続けてきました。そんな中で、今度は、「調理するこころは科学でもあり物理でもある」と思うようになりました。
物理というのは、煮たり焼いたり、蒸したりすることで、味をみることは科学になるのではないかと。
そして、去年のお正月に、「これは哲学にも入るのではないかな」とふっと思ったんです。
このように考えながらやっているうちに、とても楽しく調理をするようになりました。楽しみながら調理すると、とてもおいしい料理ができます。
おいしくなかったら栄養にならない
レシピに従って何グラム、何カップとやっても、それだけではおいしくできない場合が多いんです。そこで味をみながら作っていく。自分の口で確かめながら、「多い」「少ない」と実験するような気持ちで調理することでおいしくなっていきます。
よく「うちの子供は好き嫌いがあるんですがどうしたらいいでしょうか?」と聞かれますが、私は「おいしくできていますか?」と訊ねます。するとあまり自信のないお顔をされます。おいしくできたものは、赤ちゃんでもはっきりわかるので、頷くように食べ、おいしくないものは舌に出します。おいしいものを赤ちゃんが食べていると、その味をからだで覚えて成長する。そして大きくなってからも、母の味を求めて自然に実家に帰ってきます。
イスキアに訪ねて来られる方でも、例えば、からだが萎えているときにおいしいスープを飲むと、すぐに感じます。からだの中にスープが入って、指先まで通じるように、細胞が躍動するように…。その反対の場合もありますので、やはり「おいしく作る」というのが私たちの課題ではないかと思うんですね。
10の工程があるとすると、どこか1つでも疎かにして、心を離しているとおいしくはならない。そして、わき目もしないでずっと見ながら、そこで起こっていることをつかむことが大事だと思います。
火というのは神聖なものとして昔から扱われてきたんですが、それが今ガスや電子になったので、それだけ気持ちも希薄になっていると思うんですよ。調理中に話をしていても、途中でトイレに行ってもできている。
でも、火というのは神聖なものだから、そこに立ったときには心もひきしめて作ることが大事ではないかと思います。
自分で体験することが大切
塩分についても、ずっと「減塩、減塩」と言われ続けていますが、私の素人考えでは、からだから塩が排出しているのに、減塩ばかりしていたらからだがなまってくるんではないかと思うんですね。
おいしく感じる「適塩」を、必要な分だけはとったほうがいいような気がします。実際に適塩で元気になった方もいますし、「お塩ちょうだい、お塩ちょうだい」と言っていた知り合いのお子さんが、お塩をとるようになってからできものが取れたということもありました。
ですから、何でも鵜呑みにするのではなくて、自分で体験して、気づきを得て、そして確信をもったもので生活の中でいかしていけばいいわけなんですね。
そして私は、「神様からいただいたこの機能を、使わなかったら衰えていく」という考えなんです。いただいた機能は充分に使ってはじめて活性化し、使わないとできなくなる。
食べ物も「楽だから」と出来たものをただ買って食べていると作ることができなくなります。
楽だからという考えは、だんだん何もしなくてもいい生活になっています。そうでなく、やっぱり自分から動いていくことが大事だと思います。
ですから、イスキアを訪ねて来られる方たちに対しても、私が答えを出すようなことはせずに、聞(聴)くことだけは充分にしています。話をされる人の体験を自分の体験の一番近いことに置き換えて聞くようにしていますが、自分から答えを出すことはしません。答えは出さずに、最後に「動いてくださいね」と言うようにしています。
そして「人様のためにお役に立つように動いてくださいね」と言って別れているんです。そのときに、「わかりました」と言って動いた人は、必ずいい方向に進んでいっています。
相手は聞いてもらって受け入れてもらったという安心と信頼感が出てくるのです。それを他人事のように聞いているのが一番いけない。
「私が治してあげる」という考え方ではなく、自分の体験をそこに置き換えて聞いてあげると、その人の溜まっているものが出てきます。そして、やはり素直さが大事で、正しいと思ったことは素直に受け入れて行動に移してみる。すると、今までの苦しみも自然に消えていくんですね。
ヒトは一人では生きられない
私は、「今日と明日は同じであってはいけない」と思います。
どんな小さなことでも、毎日つみ重ねていけば、3年、5年、10年と経つと大きな結果となります。環境問題にしても、まず「自分だけはやる」という人が集まって大きなものになる。「私は何もできない」ではなく、チャレンジしていくことが大事で、そうすると楽しくなります。
食べ物も自分で作ると楽しくなり、楽しんで作ったものはおいしくなります。家庭や教育の場でも、人と人との交流であっても、食を通していけば長続きするし、よく通じていくと思います。
また、調理は包丁で切る音や漂ってくる匂いも大事で、家に帰ってもおいしい匂いがしないとご主人も寄り道したくなるんです。食欲をそそられるようなおいしい匂いがする家庭には問題は起こらないのではないかと思います。
昔は丸いちゃぶ台で、皆の顔を見ながら食事をしました。イスキアでも丸いちゃぶ台を使っていますが、そこで食事をすると皆仲良くなって帰っていきます。
ヒトは一人では生きられない、誰かと一緒でないと生きられません。
神様の姿は見えませんが、神様に代わる人が誰でも必ず傍にいると思います。そういうことで、一人で孤独に苦しむことがないように、「言葉をこえた行動」をモットーにして、いつも変わらない穏やかな心で生活していきたいと思っております。
(HOLISTIC News Letter Vo.72より)
今を生きる
私はなんにも心配していないの。今を生きているから。
心配する人は必ずといっていいほど先のことばかり考えますが、先の見えない未来のことにあれこれ心を惑わしても、不安が募るばかりです。
今ほど確実なものはありません。
今に感謝していると、とても自由な気持ちになり、一歩一歩確実に進んでいけるように思います。
佐藤 初女 さとう・はつめ 日本の福祉活動家、教育者。
1921年青森県生まれ。小学校教員を経て、1979年より弘前染色工房を主宰。
老人ホームの後援会や弘前カトリック教会での奉仕活動を母体に、1983年、自宅を開放して『弘前イスキア』を開設。1992年には岩木山麓に『森のイスキア』を開く。
助けを求めるすべての人を無条件に受け入れ、食事と生活をともにする。病気や苦しみなど、様々な悩みを抱える人々の心に耳を傾け、「日本のマザー・テレサ」とも呼ばれる。
1995年に公開された龍村仁監督の映画『地球交響曲<ガイアシンフォニー>第二番』で活動が全世界で紹介され、シンガポール、ベルギーほか国内外でも精力的に講演会を行う。
アメリカ国際ソロプチミスト協会賞 国際ソロプチミスト女性ボランティア賞、第48回東奥賞受賞。
2013年11月の「世界の平和を祈る祭典 in 日本平」でキリスト教代表で登壇。
2016年2月1日ご逝去。
著書
『おむすびの祈り』『いのちの森の台所』(集英社)
『朝一番のおいしいにおい』(女子パウロ会)
『愛蔵版 初女さんのお料理』(主婦の友社)
『限りなく透明に凜として生きる――「日本のマザー・テレサ」が明かす幸せの光』(ダイヤモンド社)
『「いのち」を養う食』(講談社) ほか多数。
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