無分別智医療と集合的一般常識(天外 伺朗)

『HOLISTIC News Letter Vol.90』

 

無分別智医療と集合的一般常識

天外 伺朗  てんげ・しろう(ホロトロピック・ネットワーク代表、工学博士)


 

「死」と直面するということ

1997年、私は約800人の会員を集めて「マハーサマディ研究会」という団体を立ち上げました。「マハーサマディ」というのは、瞑想をして至福のうちに亡くなることで、仏教では「坐亡」といいます。病院の集中治療室で管だらけのスパゲティ状態で、のたうち回って死ぬのではなく、もう少しまともな死に方をしたいね、という会です。

日本ホリステイック医学協会初代会長の故・藤波襄二先生、二代目会長の帯津良一先生にはプリンシパル・コントリビューター(指導的顧問)にご就任いただきました。

「まともな死に方」に意識が行くと、ほのかに「死と直面」出来ます。そうすると、生きている「いまの瞬間」が輝いてきます。これは古今東西よく知られている原理であり、西洋では「メメント・モリ(死を想え)」といわれています。

名経営者といわれるような人は、往々にして重篤な病気を克服しています。それは、病気になった段階で「死と直面」することにより「実存的変容」を体験し、一段と高い精神的な境地に達したのだ、と考えられています。

身体と精神の関係を追求された、故・池見酉次郎医師は「がんが自然退縮するためには患者が実存的変容を起こす必要がある」ということを発見されました。現在、自然退縮の例があまり多くないということは、重篤な病気になっても「実存的変容」を起こす確率はとても低いのでしょう。


ホロトロピック・センター

私は、貨幣経済を中心とした産業構造の中に位置づけられた「病院」という存在は「システム設計上の間違い」だと思っています。あらゆる産業は成長を前提にしていますが、医療産業が成長する、ということは患者の数が増えるか、一人ひとりから徴収する医療費を増やすしかありません。人々が、より不幸になることで成長するという産業は考えものです。

財政が破綻して市民病院が閉鎖された夕張市では、若者がいなくなって圧倒的に平均年齢が上がったにもかかわらず、病気になる人が減り、死亡率も下がりました。「病院の存在が病人を増やしている」というのは言いすぎでしょうが、考えさせられます。

私がいま進めている医療改革では、「病院」にかわり「ホロトロピック・センター」と称する概念を提案しています。そこでは病気の治療が主務ではなく、健康な人も含めて生まれてから死ぬまで「病気にならないようにケアすること」と、病気になった場合には治療だけではなく患者の「実存的変容」を秘かにサポートする、という役割を担います。患者の意識の変容をサポートしたからといって保険の点数はつかず、秘かにサポートするので患者にもいえず宣伝にも使えません。

つまり、医療者側の実利的なメリットはなく、意識レベルの高い医療者しか巻き込めないのですが、幸いなことに多くのご賛同をいただいて、すでに、札幌から指宿に至る15の医療機関がこちらの方向に向かって少しずつ歩み始めています。

ホロトロピックというのは、トランスパーソナル心理学の創始者、S.グロフ博士が自ら編み出した呼吸法ワークにつけた造語で、「全体性に向かう」という意味です。仏教でいう「悟りに向かう」と同じ意味です。ホロトロピック・センターの活動が人々の「意識の成長・進化」に貢献することからこの名称を借用しました。1998年にグロフ博士から、名称を使わせていただくご許可を得ました。

病院なら、病気が治って元の生活に戻れれば成功ですが、ホロトロピック・センターではそれだけでは失敗です。せっかく病気になったのですから、治癒したなら、一段と高い精神的境地に着地しているのが理想です。精神的な病気に限られますが、ユングも同じ思想を唱えています。

この医療改革を書いた本としては、故・藤波医師、帯津医師などとの共著『こんな病院がほしい』(毎日新聞社)、ライターさんに取材して書いていただいた『癒しの医療』(飛鳥新社)などがあります。

いまのままではホロトロピック・センターの経営は苦しいですが、ローカルな会員制度を作り、会員が病気にならないほど収益が上がるという制度は、現行の健康保険制度を少し変更すれば可能です。そのための「ホロトロピック法案」を、拙著『GNHへ』、矢山利彦医師との共著『いのちと気』(いずれもビジネス社)などに書きました。

 

 

集合的一般常識

上記の表現を用いれば、「サイモントン療法」というのは患者の「実存的変容」を促す治療法といえます。2007年に故・サイモントン博士が来日した時、ある病院が主催して私とのジョイントの講演会が開かれました。私は「サイモントン療法は何故効かないか」という趣旨でお話をしました。催眠療法などで、コアビリーフが問題になりますが、私は「個人的コアビリーフ」と「社会的コアビリーフ」に分けて考えています。そして「社会的コアビリーフ」のことを「集合的一般常識」と呼ぶことにしました。これはユングの「集合的無意識」の一部であり、一般にはほとんど注目されていませんが、かなり強固であることが観察されます。

たとえば、22口径のピストルで撃たれてもアメリカでは急所に当たらない限りほとんど死にませんが、日本ではよく死にます。「ピストルで撃たれたら死ぬ」という集合的一般常識が日本には強固に定着しているようです。これほど人の行き来が多い日本とアメリカでも、集合的一般常識を異なっていることが観察できます。

そうすると「癌になると死ぬ」という集合的一般常識が強固だと、サイモントン療法もなかなか効かないという理屈になります。最近では、がんサバイバーが増えてきて、この常識がずいぶん和らいできたので、これからはもっと治療実績が上がるでしょう。この話はサイモントン博士に、とても喜んでいただけました。

その翌月、日本心身医学会のキーノートスピーチを依頼されており、同じ話をしました。なお、このときのもう一人のキーノートスピーチは、統合医療の世界的権威アンドリュー・ワイル博士でした。

私が信念を持ってこの話を語れるのは、仲間内の伊藤慶二医師がある大きな宗教団体の中で行った治療実績があるからです。西洋医療的な治療を一切行わずに、食事療法(マクロビオティック)と、意識と祈り方の指導だけで、末期がんも含めて難病が治癒したのです。

奇跡の治癒が起きると「教祖様のおかげ」になってしまう、と伊藤医師は苦笑しておられましたが、それこそ秘密のカギだ、と気づきました。宗教団体は、一般の社会とは「集合的一般常識」が違います。だから「奇跡の治癒」も起きるし、オウムのような事件も起きます。なお、伊藤医師の後を継いだ医師では、奇跡の治癒は一向に起きなかったというので、「教祖様のおかげ」ではなかったことだけは確かです。

 

無分別智医療

「分別がある」というのは一般に褒め言葉です。人生経験を積んでおかしな判断をしなくなった状態をいいます。ところが仏教で「分別」というと、物事を分け隔ててとらえる「凡夫の浅はかさ」といわれています。逆に、「正・誤」、「正義・悪」、「主体・客体」などを分け隔てない「無分別智」というのが真実の姿だ、というのです。この分類で行くと、科学は明らかに「分別知」であり、「凡夫の浅はかさ」ということになってしまいます。仏教はそんなに偉いのでしょうか?

私は長年にわたって「無分別智」が何のことだかわかりませんでした。ごく最近、「O-リングテスト」や「ゼロサーチ」などの、いわゆる「身体智」というのは「無分別智」の一例だという理解に至りました。

手に毒物を持てば「O-リング」はパカッと開きます。どうやら身体は意識レベルではわからないセンサー能力があるようです。科学的方法論(分別知)でこれを調べようとすると、試料をX-線クロマトグラフィーなどで成分分析し、データーベースに参照して毒性を調べることになります。試料は破壊されるし、時間はかかるし、一般論しかわかりません。おまけに日常生活では、包装などで簡単にごまかされてしまうでしょう。

身体智なら、一瞬でわかり、試料は破壊されず、その患者にとっての薬の適量など個別のデータが得られます。包装でごまかされることもありません。身体智に比べれば科学的方法論は、やはり「凡夫の浅はかさ」といわれても仕方がないほどお粗末です。

ただし、科学的方法論は誰がやっても同じ結果が出るのに対して、身体智というのは熟練が必要で、検証が不可能で、下手をすると「思い込み」や「迷信」の世界に陥るという危険性があります。いままでの西洋医学は、そういう「あやふやさ」を極力排除して、均質的な医療を提供する、という思想のもとに発展してきました。

「O-リングテスト」も「ゼロサーチ」も、かなり医療現場に入り込み、治療実績を上げてきています。もうすでに世の中は「無分別智医療」の時代に突入しているのです。いままでは科学的方法論というのが絶対的に正しいと信じられており、それ以外の方法論は軽んじられてきました。これからは科学的方法論(分別知)だけでは、にっちもさっちもいかなくなるでしょう。

私たちの仲間内では、「怪しい医者」というのは褒め言葉です。「怪しくない医者」は「無分別智医療」の時代にはついていけないかもしれません。でも、ただ「怪しい」だけでは困ります。怪しいけれど、マインドがオープンで、現場で起きていることから学び、あらゆる分野のあらゆる人から謙虚に学び、常識にとらわれずにより良い方向性を追求し、創造力が豊かで、お山の大将にならない、人間性豊かな医療者の育成が「無分別智医療」の時代には、特に大切と思われます。

 

「あの世」の科学

量子の奇妙な振る舞いが明らかになるにつれ、量子力学と宗教の世界観が接近してきたように多くの人が感じました。もう少し科学が発展すれば、両者を包含するしっかりした理論が出現する、と期待されました。

私やA.ラズローなどが、両者を統合する試みを本に書きました。とても科学的仮説のレベルには達していないので、「科学的ロマン」という呼び方をしています。私は、ユングの「集合的無意識」と、物理学者のD.ボームの「ホログラフィー宇宙モデル(これも「科学的ロマン」に分類)」の「暗在系(implicate order)」が同じ内容を記述しているのではないかと気づき、それを「あの世」と呼びました。

死んでから行く「あの世」とは少し違いますが、私の定義する「あの世」は次の四つの特徴があります。

  • 非局所的
  • 時間・空間が定義できない
  • 観測できない
  • 因果律が成立しない

これらから出発して、様々な興味深い知見が得られるのですが、いずれも「ロマン」の範囲を出ることはできません(詳細は拙著『ここまで来た「あの世」の科学』祥伝社、などを参照)。ただ、この視点から眺めると、上記の「集合的一般常識」や「無分別智医療」などは、明らかに「あの世の営み」に分類されます。

つまり、従来の西洋医療が「この世」だけで閉じていたのに対して、これからは「この世」と「あの世」を統合して考える時代に突入した、ともいえます。

いままでは、ほとんどの人は科学が進歩すれば、私のいう「あの世」も統合する理論が樹立されると信じていました。ごく最近私は、それはあり得ない、と感じています。

科学的アプローチというのは、あくまでも「分別知」の範囲を超えることはできず、未来永劫「あの世」の科学的解明はあり得ない、という予測です。そうだとすると、優秀な医者はこれからも「怪しい医者」と呼ばれながら、そして一部の人からは後ろ指をさされながら、新しい方向性を探求する以外にない、というのが私の結論です。世の中全体が「怪しさ」を受け入れるには、まだまだ時間がかかるでしょうが、とても面白い時代に突入したと思います。(了)

 

(HOLISTIC News Letter 2017年より)


天外 伺朗  てんげ・しろう

工学博士。本名、土井利忠。1964年東京工業大学電子工学科卒。ソニーに42年余勤務。その間、CD、AIBOなどの開発を主導。1997年より、理想的な死に方につながる光り輝く日々を追求する人たちのためのネットワーク「マハーサマーディ研究会」を主宰。2004年「ホロトロピック・ネットワーク」へと名称を変更。病院に代わる「ホロトロピック・センター」という概念を提唱。そこでは、人々が病気にならぬように生まれてから死ぬまでケアし、病気になった場合には、治療とともに「意識の変容」を密かにサポートする。

著書
『治癒を目指すがん患者のための瞑想ワーク 思考と感情ががん遺伝子に働きかけるすごい力』ユサブル(2024)
『「自己否定感」怖れと不安からの解放 (新・意識の進化論)』内外出版社(2021)
『自己否定感」怖れと不安からの解放(新・意識の進化論)』内外出版社(2021)
『「ティール時代」の子育ての秘密 あなたが輝き、子どももより輝くための12章』内外出版社(2020)
『実存的変容 人類が目覚め「ティールの時代」が来る』内外出版社(2019)
『無分別智医療の時代へ』内外出版社(2017)
『宇宙の根っこにつながる瞑想法』飛鳥新社(2005)
『ここまできたあの世の科学 魂、輪廻転生、宇宙のしくみを解明する』(2005)祥伝社
『意識は科学で解きあかせるか』 共著(ブルーバックス)他多数。

 

 


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