身体観とスピリチュアリティ(上野圭一)
Holistic News Letter Vol.70(2007)
身体観とスピリチュアリティ
上野 圭一(翻訳家・NPO法人日本ホリスティック医学協会名誉顧問)
スピリチュアリティとはなにかと問われた識者からは、たいがい「特定の宗教団体や伝統から距離を置きつつも、自己を超えた存在など、目にみえないものとのつながりを自覚する宗教意識」といった答えが返ってくる。
たしかにそうなのだが、どうもいまひとつわかりにくい。
「わかりにくい」と感じるのは、「自己を超えた存在」「目にみえないもの」という表現に具体性が欠けているからではないか?
目にみえ、手にふれられる具体的なものを介在させながらスピリチュアリティを語ることはできないか?
そう考えて行き当たったのが「身体」だった。というよりも正確には、身体観の変遷を追っているうちにスピリチュアリティの問題と交叉してきたのである。
ヨーロッパでも中国や日本でも、マックス・ウェーバーが「脱魔術化」(魔術からの解放)と呼んだ「近代化」以前、人びとは(まるで魔術にかかったように)天体の運行をはじめとする自然の変化と人間の身体とは複雑につながっていると感じていた。
占星術・錬金術と医術とはつねに近縁関係にあり、身体は天与のものであり、個人の所有物とは考えられていなかった。
その魔術から解放され、合理主義が規範とされるようになるにつれて、つまり近代が進行するにつれて、医術は医学となり、身体は天体の運行などとは無関係の柔らかい機械とみなされ、暗黙のうちに、個人の所有物として認識されるようになっていった。
いまや、手術前の同意書や臓器移植のドナーカードへの署名は、故障車の修理や善意による機械の部品提供の手続きにおける署名と変わるところがないのはご承知のとおりだ。
ところが、人間に効率・清潔・快適・享楽・奢侈などを提供してくれた合理主義は、越えてはならない一線を越えてしまった。合理主義を人間中心主義というエゴイズムによって運用してきたことのツケがまわり、他の動植物に多大な迷惑をかけるどころか、地球そのものに温暖化という深刻や被害をもたらしはじめた。
1960年代、合理主義と人間中心主義が手を結んだ結果として生じる危険に、『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)によって気づかされた少数の人たちが徐々に仲間をふやしながら、社会のあらゆる領域で「近代」から脱しようとする試みをはじめた。歴史家のモリス・バーマンのいう「世界の再魔術化」のはじまりである。
身体を与えられた私たち
「スピリチュアリティ」ということばは、その再魔術化の進行とともに人口に膾炙していった。
身体は分子機械ではなく、経絡やナーディといった微細エネルギーが流れる「エネルギー場」であり、その「場」は閉鎖系ではなく開放系で、つねに外界とつながっている。
そして、身体は個人の所有物ではなく、自然(天・神・仏など人智を超えた超越的な力)から貸し与えられたものであり、ときがくれば返却すべきものであるという、近代以前に長くつづいていた「魔術化」時代の思想が復活してきたのである。
日本においても事情はさほど変わらない。儒教に影響されていた時代は「身体髪膚、これ父母に受く」(毛髪や皮膚などの身体は両親からもらったもの)と教育されていたが、『孝教』にあるその教えのあとにつづくのは「だからいたずらに棄損してはならない」という意味のことばだった。
「父母」の「身体髪膚」もまたその「父母」から受けたものであれば、最終的には超越的な力に帰するものであり、けっして個人の所有物ではないと教えていたことになる。
何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる
『山家集』(西行)にあるこの歌(行教和尚作という説もある)に表現されているように、日本人は長く、神仏の名を特定するまでもなく、大自然や聖地に立つとき、人の情けにふれたときのみならず、自分がいまこうして生かされていること、この身体を貸し与えられていること、呼吸をし、ものを食べ、排泄し、歩き、働き、考え、笑い、産み、育て、眠り、また目が覚めることそのものに、「かたじけなさ」(身にしみてありがたい。もったいなくも畏れ多い)を感じてきた。
その「かたじけなさ」のなかに鈴木大拙のいう「日本的霊性」があり、真のスピリチュアリティがある。
そこを踏み外したスピリチュアリティ的なもの、たとえばマスメディアが発信している、「死後の世界」や「霊の実在」が所与の条件として語られるようなそれと混同してはならない。
『スピリチュアリティの興隆』(岩波書店)の著者である島薗進氏(東京大学教授、宗教学)は「スピリチュアルな著名人に過剰な期待がかけられていることに不吉を感じる」として、つぎのように語っている。
「(それらの人たちから発せられるメッセージは)生と死に正面から向き合った上でのことではない。『リセット』してゼロからやり直しできるもののように、いのちを軽んじる姿勢が導き出される可能性は十分にある」。
(Holistic News Letter Vol.70(2007))より
上野 圭一 うえの・けいいち
1941年生まれ。早稲田大学英文科、東京医療専門学校卒。翻訳家/鍼灸師/日本ホリスティック医学協会名誉顧問
世界の代替療法、ホリスティック医学を先駆的に研究し、多くの書物の翻訳を手がける。
<著書>
『代替医療 オルタナティブ・メディスンの可能性』角川文庫(2002)
『補完代替医療入門』岩波新書 (2003)
『わたしが治る12の力 自然治癒力を主治医にする』 学陽書房(2005)
<訳書>
『人はなぜ治るのか』アンドルー・ワイル/日本教文社(1984)
『太陽と月の結婚 意識の統合を求めて』アンドルー・ワイル/日本教文社(1986)
『ナチュラル・メディスン』アンドルー・ワイル/春秋社(1990)
『魂の再発見 聖なる科学をめざして』ラリー・ドッシー 井上哲彰共訳/春秋社(1992)
『癒す心、治る力』 アンドルー・ワイル/角川書店(1995)
『いのちの輝き フルフォード博士が語る自然治癒力』ロバート・C.フルフォード他/翔泳社 (1997)
『癒す心、治る力』アンドルー・ワイル/角川書店(1997)
『癒しの旅』ダン・ミルマン/徳間書店(1998)
『人生は廻る輪のように』エリザベス・キューブラー・ロス/角川書店(1998)
『音はなぜ癒すのか』ミッチェル・L.ゲイナー、菅原はるみ共訳/無名舎(2000)
『バイブレーショナル・メディスン』リチャード・ガーバー、真鍋太史郎 共訳/日本教文社(2000)
『奇跡のいぬ グレーシーが教えてくれた幸せ』ダン・ダイ、マーク・ベックロフ/講談社(2001)
『ライフ・レッスン』エリザベス・キューブラー・ロス、デーヴィッド・ケスラー/角川書店(2001)
『ヘルシーエイジング』アンドルー・ワイル/ 角川書店(2006)
『永遠の別れ』エリザベス・キューブラー・ロス、デーヴィッド・ケスラー/ 日本教文社 (2007)
『うつが消えるこころのレッスン』アンドルー・ワイル/角川書店(2012)
他多数。
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